日置當流の歴史(前編)
日本弓術中興の祖
日置流々祖「日置弾正正次」
室町時代には歩射の流派として武田流、逸見流、小笠原流が存在していました。しかし、日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)が流祖である日置流の登場によって、歩射の代表的な流儀となり日本各地に広がります。正次が編み出した日置流は当時としては革新の射術であり、日本弓術中興の祖であると言われています。
上に掲げた人物が日置弾正正次です。しかし、正次は非常に諸説多い射手で、古文書などにも定説は無く、後に日置流を受け継いでいく吉田家の、吉田出雲守重賢(よしだいずものかみしげかた)と同一視する見方もあります。日置流某派の伝書では「当流の元祖は、八幡大菩薩の化身なり。」と神格化までされています。しかし、日置正次・吉田重賢同人説にせよ別人説にせよ、現在とほとんど変わらない射術を作り上げた人物であることは間違いなく、日置流各派(印西派・出雲派・雪荷派・道雪派・壽徳派・左近衛門派・大蔵派・山科派等々)の伝書が等しくその名を流祖として挙げていることは、当然のことかも知れません。この日置流各派はその後(江戸期)大変栄え、今日の日本弓道の基礎となりました。
日置正次は非常に諸説多い人ですが、出生の地も大和(奈良)又は伊賀(三重)の人であると言われています、印西派では大和の人となっているようです。正次が活躍した時期は、応仁の乱(1467〜1477)が起こり各地に戦国大名が登場し日本全体が戦乱に包まれていった時代です。正次は弓術修行のため諸国を遊歴し、中貫久{ちゅうかんきゅう(中てること、貫くこと、持続させること)}の悟りを開き、近江の六角佐々木氏の家臣である吉田氏を訪れ、吉田出雲守重賢に唯授一人の印可を授けたとされています。その後、正次は再度諸国を遊歴して紀州(和歌山)高野山に入り、剃髪して瑠璃光坊威徳(るりこうぼういとく)と号し、1500年頃59歳(没年にも諸説ありますが、この頃でると思われます。)で亡くなったようです。
日置正次実在説では門人に、日置右馬允、吉田出雲守重賢、針野加賀守、大塚安芸守の名前が挙がりますが、正次は吉田重賢にのみ奥義を唯一伝授したと言われています。従って、正次の奥義のほとんどを吉田一門が吸収したこととなり、正次・重賢同人説を取ったにせよ、日置正次(又は吉田重賢)が編み出した革新の射法、つまり日置流弓術は吉田一門が後世に伝えていくことになります。
日置正次・吉田重賢同人説について
「備前岡山藩の弓術」〜吉田家御奉公之品書上より〜守田勝彦・編著(吉備人出版)に次のような記述があります。(p22)
〜以下転載〜
備前日置当流師家・徳山勝彌太師は、『日置流弓目録六十ヶ条釈義』の中で次の様に講じておられる。
吉田出雲守重賢と申す人は江州三つ国の城主。知行は七萬貫を領し、佐々木家の僚家に属し、射術の名人にて、世上の人弟子に相成る人多く佐々木家より重賢に一流の元祖となりて射術を広める様申されしに、自分の如き者が一流の元祖となると言う事は固く辞す。その訳は後世に至り、もし間違いが起こった場合の僻となるので辭したのである。
所で、他に弓矢の道を広める者がないので、重ねて佐々木家より申し付けられたので、其では自分は二代目として元祖弾正より正しく伝えられたるも解く者は解きあやまる事なし聞く者は聞き誤ることなしとの義であるが、重賢が聞き誤って間違いがあったと言うことにすれば、又後に訂正する事が出来る。
弾正の法名は瑠璃光坊威徳大居士と申して高野山へ葬り納め有り候。
〜以上〜
また、重賢の後を継ぐ吉田出雲守重政が、本来の元祖である重賢の上に「日置弾正正次」なる射術全能の人物を創造し、正次よりその弓術の奥義をすべて伝授されたことにして、流儀の重み付けを図ったとも考えることが出来ます。このように定説が無いという点で、管理人は日置正次の存在を少々疑問視しています。これはあくまでも管理人の私見ですが、皆様は如何お考えでしょうか?
六角佐々木家々臣吉田一門
源氏の名門である六角佐々木家は、観音寺城を本拠として近江(現在の滋賀県にあたります)の南部に勢力範囲を保ち、佐々木義賢の代には、一時的に北近江の浅井家臣従させるほどに勢力を伸ばしました。その佐々木家の有力な家臣に吉田家が存在していました。
日置正次より吉田出雲守重賢に伝わった日置流の奥義は、重賢の跡目である吉田出雲守重政へ伝授されます。横道に逸れますが、日置流と呼ばれていながら、後世に伝えていくのはあくまでも吉田一門でしたので、日置流の名を敢えて吉田流と呼ぶこともあります。さて、重政より嫡子である吉田出雲守重高へ日置流の奥義は受け継がれていく事になるのですが、そこに六角佐々木家当主(後見人?)である佐々木左京太夫義賢が登場致します。
義賢は若年の頃より重政に付き弓術を学び、やがては弓術天下無双とまで言われるようになります。そのうちに義賢は重政に唯授一任の印可を再々要請するようになりました。重政自身はこの印可は他家へ渡すべきものではないと拒み続け、ついには義賢と不和になってしまいます。その圧迫に耐えかねた重政は、代々の故地を捨てて越前一条谷に逃れ、6年間に渡り朝倉義景の庇護の元で客分の扱いを受けます。やがて、義景の取りなしもあって、義賢は自分の非を悔いて和を申し入れ、所領を加増した上で重政を呼び戻します。また、重政もやむを得ず義賢を養子とし、唯授一人の伝を授けます。後に重政の嫡子である重高は義賢の養子となって、唯授一人の印可を返伝されました。
余談になりますが、本格的な戦国の世になると、射手の多くが実戦から離れた競技で名を上げていたそうですが、1561年、佐々木勢と松永勢との戦いでは、二千の兵力の佐々木勢が一万余騎の松永勢に対して、得意の射手300余人を先手に進めて有利に戦い、松永勢を射退けています。弓術天下無双と呼ばれた佐々木左京太夫ならではの話だと思います。
重高は嫡子の吉田出雲守重綱に唯授一人の印可を伝えますが、重綱は父より先に没してしまいます{天正10年(1582)28歳}。重高には他に6人の男子が居ましたが、二男成政は他家(池田三右衛門の養子)を継ぎ、四男賢輔は父に先んじて早世し、五男勝方は天正10年の本能寺の変で信長に従い戦死、六男政一は他家を継ぎ、末子方雄はまだまだ幼年でありました。三男の吉田左近衛門業茂は弓術をもって関白豊臣秀次(秀吉の養子)に仕え、のち前田利家の臣となり、左近衛門派の祖として、金沢の地に永くその流名を伝えました。
日置流印西派流祖
吉田源八郎重氏・号一水軒印西
吉田重高の嫡子重綱の嫡女の婿なった人物に、吉田源八郎重氏(旧姓葛巻)という人物が居ました。始めは養父重綱の弓伝を受けて居ましたが、訳あって不仲になり(また、重綱は早世してしまいます。)、吉田重高の三男業茂に付いて弓を学ぶ事になりました。その後、業茂の弓伝を受けた重氏は一流の流祖として後世に名を残します。吉田源八郎重氏の法号は一水軒印西と言い、その号から重氏を流祖とする流派を「日置流印西派」と呼ぶようになりました。
印西先生は始めは関白秀次公(秀次公は大変弓術を好み、上記のように吉田業茂も召し抱えて居ました。後に、秀吉と不仲になり幽閉され1595年に自害。)に仕え、のち家康の二男で秀吉の養子になった、結城中納言秀康及びその子の忠昌に仕え、越前(福井)に居を構えていました。その後、日置流印西派の弓を広める為に京都に近い伏見に居を移し、参勤交代の際に訪れていた西国大名に弓術を指南していました(当時将軍家が大名の弓を度々ご覧になることがあり、この為西国の大名は参勤交代の際に伏見に逗留し印西に教えを受けていました。この為、印西先生には西国諸藩の藩士の門人が多く居たそうです。)。これが将軍家に聞こえ、大阪夏の陣(豊臣家滅亡)後、印西先生は徳川家康に弓術指南役として江戸に呼び出され、家康・秀忠公に拝謁しました(1615年・印西先生54歳)。翌年に家康公が亡くなったあとは、秀忠・家光公に仕えます。日置流印西派が将軍家に伝わった発端です。1627年には印西先生の子である吉田久馬助重信が江戸へ召し出され、秀忠・家光公に拝謁し、高齢であった印西先生に変わって、将軍家弓術指南役として旗本に列します(以後代々将軍家弓術指南役)。
将軍家に伝わった印西先生の弓は、将軍家だけに「當(当)」と言う文字を用い(現在でも「当局」という言葉がありますね)、日置流印西派と言わず「日置當流」と称しました。これが日置當流の由来です。では今現在、自分たちが今名乗っている「日置當流」という名は、徳川将軍家由来かと言えば全くそうであるとは言えないのです。そこの話については、またの後に述べたいと思います。
それでは吉田重綱早世後の日置流出雲派(助左衛門家)はどうなったのでしょうか。答えは重綱嫡子の豊隆が継ぐことになるのですが、豊隆はまだ当時3〜4歳と幼少でしたので、まだまだ唯授一人の伝を受けることは出来ませんでした。従って重高没後は、重高の3男左近衛門派の業茂、叔父の雪荷、末弟方雄が養育の責を任され、唯授一人の伝を封緘(ふうかん)して預けられました。またの後に姉婿の葛巻源八郎重氏(後の印西先生)に養われたとも言われています。重綱早世後の吉田本系出雲派の唯授一人の伝は、豊隆成人までとかくスムーズに継がれる事無く、そのことが吉田流出雲派の盛んな分派活動の一因になったとも考えられます。また一方で、近江吉田家の主君であり、名門近江源氏である2つの佐々木家の内、守護大名・六角佐々木家の六角丞禎(佐々木義賢)が覇王織田信長に敗れて下野してしまいましたので、吉田一族が日本各地に散ってしまいました。後に、その地でそれぞれ根付いたことも、吉田流の盛んな分派に繋がったのでしょう。さて、その後の吉田流出雲派の本流は明治維新まで、備後福山の阿部藩に伝統を残します。
印西先生の流儀である日置當流(日置流印西派)が、如何にして現在と繋がっているのか?
そのお話は〜後編〜をご覧下さい。
日置當流の歴史(前編)の射手達
日置弾正正次(1444(?)〜1502(?))
室町時代の射術家。大和の人(?)。宗品、影光、豊秀ともいい、瑠璃光坊威徳と号す。
射術修行のため諸国を遊歴し、中貫久の悟りを開く。吉田重賢にのみ唯授一人の伝を授く。近世弓術中興の祖と仰がれ、信仰に近い尊敬を受けた人物である。日置流弓術の祖。
正次はすべての人の人格や技術を認め、射の前ではだれも平等であるという精神の持ち主でもあった。正次の弓術は、小笠原の貴族の弓に対し、職業の貴賎、身分の上下を問わず、大衆の弓、庶民の弓として急速に広まっていった。
正次・重賢同人説にせよ別人説にせよ、異説非常に多くして定説無く、一部では神格化までされた、非常に謎の多い射手である。
吉田出雲守重賢(1461〜1543)
近江の蒲生郡河森に生まれる。通称を助十郎、助三郎左衛門、太郎左衛門、助左衛門といい、上野介、出雲守と称し、道宝と号す。
蒲生郡龍王嶽の城主。近江佐々木氏旗下。吉田家は近江源氏佐々木家の一族である。幼年から修得した家伝の古来弓術(源氏系の逸見、武田、小笠原流)に、日置正次師直伝の革新的射法を受け入れた。正次より唯授一人の伝を受ける。吉田流々祖。
吉田出雲守重政(1485〜1569)
近江の蒲生郡河森に生まれる。吉田重賢の嫡子。通称を助三郎、助左衛門といい、上野介、出雲守と称し、一鴎と号す。佐々木家旗頭。
父と共に日置正次師に直伝を受け、唯授一人の伝を授かる。また、佐々木左京太夫義賢(抜関斎貞禎)の弓の師である。一時貞禎と仲悪しくなり、近江を離れ越前国一条谷に6年居住する。後に、重政は貞禎と和し、やむなく貞禎を養子にして唯授一人の伝を授けた。
時の将軍、足利義晴公の弓術弓術指南役も務める。
吉田出雲守重高(1508〜1585)
重政の嫡子。方郷ともいい、助左衛門、出雲守と称し、露滴と号す。佐々木家旗頭である。
六角貞禎(重政の養子となり、唯授一人の伝を受けていた。)の養子となり、幼少期より弓伝を受ける。また、重政にも弓伝を受けている。やがて上巧となり、貞禎より唯授一人の伝を返し授けられる。「観音寺騒動」・「箕作城の合戦」を経験し、主君である佐々木家の斜陽を見る。日置吉田流出雲派(助左衛門家,代々吉田家は助左衛門を名乗っていた事より)。
吉田出雲守重綱(1554〜1582)
吉田重高の嫡子。助左衛門と称し、豊雄、豊重ともいう。華翁、道春と号す。
父重高より日置吉田流の弓伝を受ける。信長に仕えていたとも言われる。重綱は28歳という若さで父より早く没してしまい、
重綱の嫡子(豊隆)はまだ幼く、唯授一人の伝を受けるには早すぎた。従って重綱の嫡子が成人になるまでは、吉田雪荷、吉田業茂、吉田印西(?)などに養育された。
豊隆成人後は、岩槻藩主阿部家に仕官し、その系を代々伝える。
吉田六左衛門重勝(1512〜1590)
吉田重政の第四子。通称を六左衛門元定、幼名を勘二郎、介次郎などといい、入道して方睡又は豊睡、雪荷と号した。日置流雪荷派流祖。
祖父重賢及び父重政に射を学ぶ。父重政に唯授一人を授かり、助左衛門家より分立して六左衛門系を打ち立てる。丹後田辺藩細川幽斎・忠興に仕える。子孫は代々藤堂家に仕える。弓村の名人であったといわれている。
伴喜左衛門一安(????〜1621)
京都建仁寺の小法師の子である。通称を喜左衛門、名を一安といい、道雪と号す。日置流道雪派流祖。
細川藤孝(幽斎)の給仕役として召し抱えられ、その縁で幽斎の師である重勝に弓術指南を受ける。後に印可を受け、やがては吉田雪荷の最高弟となる。
吉田重勝は跡目である子が病弱であったため、伴道雪に跡目を継がせようとする。しかし道雪は重勝の子を助け家芸を継がせて、道雪自身は師雪荷の許しを得て、雪荷派より道雪派の一流を創設した。道雪は尾張徳川忠吉に仕え、後に大和郡山藩松平忠明に仕える。また、細川幽斎の子忠興がお国替えとなって、熊本細川藩に道雪派が伝播する(道雪の高弟間宮信吉の系統)機縁となる。
吉田左近右衛門業茂(????〜1598)
吉田重高の三男。通称左近右衛門。茂方・元茂などの名もある。木反と号す。
父重高に弓を学ぶが、重高の高弟山科派の祖片岡家次の弓伝も受けている。弓術を以って関白秀次に仕えたが、文禄四年(1595)秀次自害の後は前田利家に仕え、この系統が永く加賀前田藩に伝わることとなる。吉田源八郎重氏に弓術を指南する。日置流左近右衛門派の流祖。
吉田大蔵茂氏(1588〜1644)
吉田業茂の三男。通称小左近、または大蔵。木反と号す。
初めは富田信濃守信高に仕えたが、一時九州に流浪する。豊臣秀次に仕えた後、慶長末に金沢藩前田利常(利家の四男、三代目藩主)に仕え、射手衆となり、禄四百石を賜った(大阪の陣で戦功があり、千四百石に増禄)。日置流大蔵派流祖。
京の蓮華王院(三十三間堂)に於いて行われる通し矢に秀でていた。前後七回に渡ってその技を試み、自己の記を更新し続け寛永五年(一六二八)、一七四二本(惣矢二七七〇本)の新記録を樹立するまで、六回の天下一の名を録す。吉田流中興の名人とも言われている。
吉田源八郎重氏(1562〜1638)
近江葛巻の生まれ。葛巻源八郎重氏。葛巻の読みはカズラマキ又はクズマキ両説ある。吉田重綱の娘婿となり吉田を名乗り、一水軒印西と号す。
始め義父である重綱に弓を学ぶが、事情があり吉田業茂に師事し左近右衛門派を学ぶ。主君である佐々木家が箕作合戦で敗れて没落後は、関白豊臣秀次、越前福井の結城秀康等に仕えて越前福井に居を構えるが、印西派の弓を広げるために山城伏見に住む。後に家康に認められて禄500石を給わる。徳川将軍家弓術指南役。日置流印西派(日置當流)流祖。
吉田久馬助重信(????〜1662)
吉田源八郎重氏(一水軒印西)の嫡男。重春とも言いい、十郎左衛門、久馬助と称す。幕府旗本(600石)であり、江戸幕府二代秀忠、三代徳川家光の弓術師範。一心と号す。
父より印西派弓術を学び印可。
重信は1927年に秀忠・家光に拝謁し、高齢であった印西に成り代わり弓術指南役となる。その子孫は旗本として江戸に残り、代々将軍家弓術師範となった(日置當流・印西派江戸本系)。
参考文献
・現代弓道講座 1 総論編 雄山閣
・現代弓道講座 2 射法編(上) 日置流射法 稲垣源四郎 雄山閣
・備前岡山藩の弓術 吉田家御奉公之品書上より 守田勝彦 編著 吉備人出版
・日本武道全集 第3巻 人物往来社
・弓道人名大辞典 小野崎紀男 編著 日本図書センター
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