薩摩日置流


ここでは簡単に薩摩藩の日置流について簡単に述べていきたいと思います。島津義弘の子で薩摩藩初代藩主・島津家第18代当主家久(忠恒)は宇喜多中納言秀家の家臣・本郷伊代守義則に師事し弓術を学びました。その後、藩主家久(忠恒)は島津家々臣である東郷長左衛門重尚の射術の非凡さを見込み、自身の師である本郷伊代守義則に師事させます。義則亡き後は、君命により重尚は京都伏見の一水軒印西師に師事し、奥義を伝授されるまでに至ります。郷里に帰った重尚は、島津光久の弓術指南役、薩摩藩弓術師範となり、印西派弓術を藩内に広めます。また、重尚の跡目となる東郷四郎左衛門重張(薩摩藩士・江夏二閑の三男で、叔父にあたる東郷重尚の嗣子となり、家流の射術を受け継ぐ。藩主である島津光久・綱貴の弓術師範。)は、江戸の日置當流4代目・久馬助貞侯師に印西派弓術を学び、印可を受けています。従って薩摩の印西派は江戸の日置當流と関係が深く、印西先生の射風を色濃く伝え、現在に至っています。

東郷重持
(薩摩藩最後の弓術師範役 東郷重持 先生)

宇喜多秀家(1573〜1655)・・・宇喜多直家の次男。幼名八郎、家氏といい、休福、成元と号す。従三位、参議、権中納言。吉田重勝師に雪荷派弓術を学び、国内免許。

宇喜多氏は、浮田とも浮喜多ともいう。父は乱世の梟雄として名高い直家。宇喜田家は室町時代は守護、赤松氏の守護代、浦上氏の重臣。直家は毛利氏に属しつつ、岡山城を本拠として勢力拡張。毛利氏の援助で三村氏を討ち、主君である浦上氏を追放し、備前、美作、播磨の一部を領する戦国大名に成長。織田信長の中国征伐のときは信長に従い、秀吉の毛利攻めと組んで毛利氏を離れる。

秀家は直家晩生の子で、天正9年(1581)、父の病没により9歳で家督を相続。翌年毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が後見人となり、養子扱いの厚遇を受ける。本能寺の変の後は、秀吉の戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天下統一後は備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の57万4千石を知行する大大名に躍進。秀吉の寵愛を受け「秀」の一字を拝領し、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室に迎える。文禄元年(1592)の文禄の役(第一次朝鮮出兵)では元帥を務め、小早川隆景らとともに、碧蹄館に明の将軍・李如松を破り、慶長2年(1597)の慶長の役には監軍として従軍。戦後その功により中納言に昇進。さらに、徳川家康、前田利家らとともに豊臣政権の最高機関である五大老に任じられ、名実ともに政権の実力者に名を連ねた。

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、秀家は西軍の副将格となり、兵17000余りという西軍中最大の軍勢を率いて西軍の中核を担う。両陣営睨み合いが続く中、合戦の火蓋は徳川直臣・井伊直政率いる精鋭部隊「井伊の赤備え」の、秀家隊への発砲で切られた。先鋒を命ぜられていた福島正則は直政の抜け駆けに怒り、直ぐさま秀家隊への突撃を開始。秀家隊もこれに即座に応戦し、熾烈なる激戦となる。この戦闘をきっかけに、関ヶ原一帯に戦闘が広まった。実際に戦闘に参加している西軍の軍勢は、東軍に兵数では劣るも善戦し、西軍東軍とも戦局を打破できず膠着していた。特に秀家隊と正則隊の戦闘は一進一退を繰り返し、まさに死闘を繰り広げる。しかし、西軍小早川秀秋の反旗で戦局は一変、東軍が西軍を一気に蹴散らし西軍総崩れとなり、大将石田三成は退却した。秀家は家臣明石全登の説得で戦場を離脱することを決意。伊吹山中を経て、大坂屋敷までたどり着き、島津家を頼って、数名の家臣を引き連れて薩摩に落ち延びた。

薩摩に落ち延びた秀家は島津家に守られた。しかし、長続きせず、島津と徳川の和解が成立した際、秀家を引き渡すことになり、慶長8(1603)年、大隅牛根より伏見に護送された。島津家、前田家(秀家の正室・豪姫は前田家の出である)の徳川幕府への助命嘆願が続き、死罪は免れたものの、八丈島配流(流罪)に処せられる。慶長11(1606)年、秀家34才の若さで八丈島に流され、赦免が果たされることなく、明暦元(1655)年、八丈島在島生活約50年、83年の生涯を閉じる。皮肉なことに、関ヶ原に参戦した武将の中で最も長寿であった。 また、宇喜多一族は明治の大赦まで、264年間にわたって刑を解かれなかった。なお配流の宇喜多一族には、豪姫の実家・前田家や旧家臣・花房家から援助が続けられた。


本郷義則・・・宇喜多秀家の臣。薩摩藩々士、薩摩の地に没する。伊予守と称し、吉田重綱師に日置流弓術を学び、免許を授かる。

関ヶ原の合戦で西軍が総崩れし、混乱の極みの中、宇喜多中納言秀家は明石全登に説得され、近臣数名とともに関ヶ原の戦場を脱出して伊吹山中へと逃れた。従う士は進藤三左衛門正次・蘆田作内・森田小伝治・虫明九平次・黒田勘十郎・本郷義則・山田半助である。一行は伊吹山中、大坂の宇喜多屋敷を経て、島津家を頼り薩摩に入る。島津家では大隅郡牛根郷の平野家に彼を迎え、厳重な防御態勢で彼を守った。しかし、島津と徳川の和解の際、秀家は薩摩を離れて伏見に幽閉され、八丈島に遠流となる。秀家は薩摩を去るにあたって、家臣の本郷義則を薩摩に残し、島津家の恩義に報いた。義則は島津家久(忠恒)に家臣として仕え、家久公の弓術を指南役となる。その後、家久公は島津家々臣である東郷長左衛門重尚を本郷伊代守義則に師事させた。薩摩の地に日置流弓術が伝播した機縁である。