日置當流の歴史(後編)


さて前編では印西先生が登場し、日置當流(印西派)が形成されてゆく過程を述べてゆきましたが、この後編では明治維新を乗り越えて現在まで至っている日置当流について述べてゆきたいと思います。

徳川将軍家の射術であるから「日置當流」と呼び、将軍家以外では日置流印西派と呼んでいることは前編で述べました。しかし、将軍から「日置當流」と呼ぶことが唯一許されている大名家が存在しました。備前岡山藩の池田家です。日置流印西派は各地に広まりましたが、日置當流と名乗ることができたのは、徳川将軍家と、岡山の池田家のみです。日置流印西派の射法は各地に広まったわけですが、今日まで明瞭にその源までさかのぼることが出来る日置流の印西先生の系統(日置當流)は、岡山池田家の日置當流と鹿児島の島津家に伝わる薩摩日置流になります(-----→「薩摩日置流」とは?)

備前岡山藩の日置當流

ここからは備前岡山の印西派について述べていこうと思います。池田家に印西派が伝わった時の藩主は池田輝政公です。輝政公は将軍家の弓術師範で高名な印西先生の実の弟にあたる、吉田五兵衛定勝先生を弓術の師範として招聘します(慶長7年(1602)定勝32歳)。これにより印西派弓術が池田家に伝わりました。一方、池田家には代々の弓術師範として徳山家の存在があり、池田輝政公から数えて3代目の光政公が因州鳥取藩時代の弓術師範に徳山求之介という藩士がおりました。その求之介先生から数えてその4代目の徳山治兵衛勝寿先生に、吉田五兵衛定勝先生(印西先生の実弟)より数えて三代目の吉田源之丞久方先生(1650〜173?)が免許皆伝を授けます。この後、徳山家は備前岡山藩印西派師家として代々家芸を伝えます。

時代は下り、明治維新の激動の時代に各種武術が廃れていく中であっても、徳山家は決して岡山の地を離れたり、弓を廃すこともなく、昔と変わらぬ場所で日置當流弓術を今日まで代々伝えて存在しております。一方、印西先生の実弟で定勝先生直系の備前吉田家は、維新後に所在が不明となっています。また、江戸の将軍家旗本でもある印西先生直系の吉田家も、維新後には弓を廃したのかどうか分かりませんが、所在が不明となっており、岡山の徳山師家は日置當流の実質的な宗家となっています。しかし、徳山家は常に吉田家を「宗家」として敬い、自らは「師家」とのみ名乗っており、この事は備前吉田家が行方不明になって100年以上経った今でも厳重に守られており、徳山家が「宗家」を称したことはありません。

岡山後楽園南苑弓道場開場記念
(徳山勝弥太 範士)

備前岡山の池田家は、将軍家で無いのに日置當流と名乗れるのは何故?。そんな事を前に問題提起しましたが、これからはそれについて述べてみようと思います。池田斉政公が当時の将軍(家斉と思われる)の弓の御相手をしたときに、池田斉政公が競射に勝ったそうです(将軍、斉政公共に印西派弓術であったことは前述の通り)。そのとき将軍は斉政公に「何なり望め」と言い、斉政公は「当池田家でも日置當流と呼ばせてください。」と言上したところ認められ、以来岡山でも日置當流と称したとの事です。今日ではあまりピンと来ないことかもしれませんが、当時では大変名誉なことであり、備前岡山藩でこの流を学ぶものにとっては非常な誇りであったことは考えるに難くありません。

備前岡山藩の日置當流は吉田源之丞先生が徳山治兵衛勝寿先生に免許皆伝を授け、その治兵衛勝寿先生より3代後に徳山文之介豊信という射手が登場します。文之介豊信先生は弓射に特に秀でていて、歴代中傑出した弓射名人と言われています。文之介豊信先生の後を文之介豊信先生の養子である文右衛門貴徳先生が継ぎ、その後を文右衛門貴徳先生の長男鉐男先生が継いで、そして4男の勝弥太範士へと受け継がれていきます。ところで文右衛門貴徳先生にはまだ他に高名な弟子が居て名前を浦上直置と言います。その直置先生が養子とされたのが、かの有名な浦上栄範士です。

浦上父子上京

浦上直置先生は若い頃より射術に優れ、剣術に於いても備前岡山藩随一だったそうです。明治維新となり直置先生は一人でも稽古のできる弓を選んで、弓の道に進まれたのです。しかし不幸にして弓は廃れる一方でしたので、大阪に出て弓を教えていたそうです。後に、この道を普及させる事も精進することも東京で無ければどうしても駄目だということになって、東京に出て浦上道場を開き指導普及に努め勇名を馳せました。この間、浦上栄先生も父に従い明治33(1900)年に上京します。また、大正元年に徳山勝弥太師家より備前岡山の日置當流免許皆伝を授けれれました。

海軍兵学校での遠的演武だという話が・・・ 麻生ョ孝著「弓」より 浦上栄校閲・竹内尉著「弓道」より

上の写真の人物が、範士十段浦上栄先生です。明治維新後の弓引きの多くが(殆ど)片手間の趣味としての弓となっています(現在はなお一層)。しかし浦上栄先生は明治・大正・昭和の3代に渡り後進の指導にあたり、弓を引き門人を育成することを職業とされていました。簡単にいえばプロの弓道家なのです。有名なお弟子さんの中には総理大臣にもなった若槻礼次郎もいますし、浦上栄先生の後を託される稲垣源四郎先生、全弓連で活躍された村上久先生等々、ここでは書き尽くせません。弓道師範としては帝國海軍兵学校・大学校、大蔵省、日本銀行、早稲田大学、法政大学等々こちらも書き尽くせません。著書も名著を沢山世に出され、それからの弓道書のお手本ともなった「弓道及弓道史」などは有名です。全弓連の前進の武徳会でも射法制定委員として日置當流射法を武徳会制定射法に盛り込み、正面打ち起こしで統一させようとした一部の動きを退け、射法八節として残心を付け加えたのも浦上栄先生なのです 。

浦上栄先生の射術にはあまり触れていませんが、なんていったってすごい!!。晩年は別として人前では矢をはずしたことがありません。ある大学の矢渡しの記録にははずれの記録がないそうです。矢渡し自体絶対にはずしてはいけない事なので当たり前ですが・・・。今の世でも良く中る人はいます。しかし、中貫久(中る・貫く・維持向上させる)を具備した人物はそういません。一般的に見回しても、現在の弓道では紙の的のどこかに穴を開けて、その穴の数の多少で競い合って居るだけの弓に成り下がってしまいました。幼少の頃よりプロ弓道家になることを大前提とされ、「中」の稽古以外にも「貫」の稽古も十分になされ、古来からある真の「歩射」の世界で日々修練され五射六科を修められた浦上栄先生の凄さを記しても、どこまで理解して頂けるかは分かりません。とりあえずこの辺で一区切りしたいと思います。

世界に広まる日置當流

西東社「弓道入門」より 西東社「弓道入門」より 西東社「弓道入門」より

浦上栄先生の後継者として後を委嘱された人物、つまり浦上栄先生より免許皆伝、射儀指南百首を授かった射手がこの上の写真の範士九段稲垣源四郎先生です。以前、東京教育大学(現在の筑波大学)が新しく「弓道学」創設するということになり、稲垣先生は教育大学の要請に従い教授として招聘され、研究室を設けました。そこで稲垣先生は印西派の教えを近代科学に照らし合わせて、種々の実験を客観的に行いました。実験の結果、印西派の教えが物理的・力学的に照らし合わせてもいかに合理的であったかと言うことを導き出しました。

現在の弓界は根拠が曖昧で科学的には説明できない射術論や全くの迷信、高段位で高名な先生の射術論を鵜呑みにした勝手な自己流が蔓延しています。何故そんな状況に陥ったのでしょうか?。それは簡単、現在の弓界の大部分の人が和弓の特性を知っているようで、分かっていないのです。昭和の初期から浦上栄先生も危惧されていましたが、稲垣先生もこのような日本の弓の現状と将来を危ぶまれていました。稲垣先生の実証理論の弓道については、手に入れやすいところで言うと、不昧堂出版の「弓道指導の理論と実際」入江康平・森俊男共著(特に第2章)がよろしいのではないでしょうか。

稲垣先生は海外、特にヨーロッパ方面に多く指導に行かれ、大くの弓引きが日置當流を縦糸に弓を引いておられます。全弓連も多く指導者を送り込んでいますが、日置當流の占める割合は日本の現状とは大いに異なります。理由としては、稲垣先生の理論実証主義の弓がヨーロッパの人々の肌に合っているのだと考えられます。(日本人は弓の指導に抽象的な言葉を用いますが、海外ではあまり通用しないようです。)
日置當流に多大な功績を残された稲垣先生は、平成7(1995)年にお亡くなりになりました。浦上栄先生から伝授された種々の免許類(日置流弓目録六十箇条、無言歌、神道の巻、射儀指南百首)は現在もご子息が大切に保管されています。
(註)・・・日置流弓目録六十箇条、無言歌、神道の巻でいわゆる免許皆伝。射儀指南百首は師家継承資格。

日置當流の現状

日置當流は現在でも、日置當流師家道場である岡山の徳山弓道場で、徳山英則師家を中心に徳山正射会の皆さんが技術の錬磨に努められております。また、筑波大学におきましては、弓道研究室、弓道部、桜一射会とそれぞれが盛んに活動され、多くの方々が技術の研鑽に励んでいます。ヨーロッパでの日置當流の指導は、筑波大学弓道研究室の方々が中心となって、年2回渡欧し射術の研究修練が行われています。そして、東京浦上道場の浦上直先生・浦上博子先生を中心とした浦上同門会も日本各地で支部を作り盛んに活動しています。日置當流と関わりの深い薩摩日置流も、鹿児島出水地方で矢野恒雄教士を中心にして「腰矢保存会」が技の錬磨と腰矢組弓の保存に努めております。高校の部活や、大学の部活でも、日置當流の教えに沿った指導がされている場合もあります。このように、今日においても日置當流が連綿と次世代に受け継がれているのです。

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日置當流の歴史(後編)の射手達

吉田五兵衛定勝(1571〜1653)
江州の生まれ。吉田一水軒印西の10歳下の弟。隠居して清元と号す。
吉田家代々の主家であった佐々木家は、定勝誕生時には既に織田信長の上洛軍に敗れ(1568年・箕作城の合戦)没落し、吉田家一族は日本各地に移りそれぞれ仕官している。定勝は最初、越前北の庄の堀秀政に仕え、秀政没後は一族の越後村上藩主・堀丹後守直奇に仕えている。その後浪人して、秀吉七奉行の一人、近江水口城主・長束大蔵少輔正家に仕える。長束正家に仕えるにあたり、嫡子多兵衛(覚兵衛)は兄の印西に預けられて直接弓を仕込まれる。やがて多兵衛は印西より印可巻・唯授一人・系図を相伝されるまでになる。
1600年の関ヶ原の合戦では西軍に属す正家に従い参戦。しかし、西軍が敗れて近江・水口城に籠城するも、包囲した池田長吉の調略により正家は少数の家来とともに出城。後に自刃させられて、定勝も含めて家来は四散した。
慶長7年(1602)32歳の時、播磨太守・池田輝政公に召し出され、輝政公の長男である利隆公に付けられる。やがて池田家は光政公が襲封するも、8歳の若年であったため、因州鳥取に転封される(1617年)。1632年光政公の伯父備前宰相池田忠雄公が頓死し、光政公は備前岡山に国替えとなり、鳥取にいた家中共々岡山城下に移り住む。その後、定勝は83歳の長寿を保ち、池田輝政公・利隆公・光政公と池田家3代に仕えた。日置流印西派備前系の祖。

徳山治兵衛勝寿(169?〜1774)
徳山家は代々池田家弓術師範である。池田光政公が因州鳥取藩主時代、光政公の弓術師範であった徳山求之介先生より数えて4代目。吉田五兵衛定勝先生より数えて3代目の吉田源之丞覚性軒印契先生(1650〜173?)より免許皆伝。代々岡山の印西派師家。

徳山文之介豊信(1795〜1845)
治兵衛勝寿先生より数えて4代目。文化12年(1815)20歳で弓組に召し出される。 24歳にして宗家吉田家(源之丞矩方)が江戸在府中、選ばれて宗家を代行した。歴代中傑出した弓射の名人であった。養子である文右衛門貴徳(たかのり・徳山家12代当主・明治31(1898)年没)先生が後を継ぐ。

徳山鉐男(????〜大正15(1926)年)
徳山文衛門貴徳先生の長男。徳山家13代当主。
明治維新後に備前岡山にあった徳山家以外の師範家が、岡山の地や弓の道から離れていく中で、鉐男先生のみが自家道場での指導を離れなかった。現在も岡山の地に日置當流が残った由縁である。

岡山後楽園南苑弓道場開場記念徳山勝弥太(明治2(1869)〜昭和30(1955)年)
徳山文衛門貴徳先生の4男で、長兄の鉐男先生の後を継ぎ、徳山家14代当主となる。昭和29年(1954)全日本弓道連盟より範士の称号。大正元年(1912)、浦上栄先生に免許皆伝を授ける。

明治38年武徳会岡山支部発足の中心となり、戦後は岡山の弓道復興のため活動し、岡山県弓道連盟の礎を築く。また、様々な弓道部の師範となり、特に六高弓道部は大正14年から四年連続で日本一に輝き、計六回にわたり六高を日本一に導く。
著書に「日置流弓目録六十ヶ条釈義」(昭和24年)がある。

徳山文之介(明治39(1906)〜平成3(1991)年)
徳山勝弥太先生の長男。徳山家15代当主。
昭和30年戦災で消失した自家道場を再建し、後進の指導に当たる。また、岡山県内の高校弓道部の師範もつとめた。昭和40年の吉田一水軒印西師330年忌射会の記念事業の一環として「日置流弓目録」を著す。免許皆伝を杉原金久氏、大場喜代松氏に与える。俳句にも長じており、俳号は「弓街」である。

浦上直置義宗先生伸合い 浦上直置(文政11(1828)〜明治38(1905))
日置當流師家・徳山文右衛門貴徳先生に師事し、高弟に列す。浦上直置義宗。直置の読みはナオキ又はナオオキ両説ある。志コウ(ヤゴロという漢字をあてる)軒と号す。

若年より射術に優れ池田藩随一の名声を得られ、剣も、のちに警視庁剣術師範・奥村左近太と並び称されたという武道の達人であった。後年、関豊後守の客分として関藩の弓術師範を勤めた。明治維新後は、大阪に出て弓術・剣術の道場を開き活動していたが、明治33年に上京し、弓術稽古場を市ヶ谷八幡宮境内に開き、浦上栄先生と共に勇名を馳せる。明治38年大日本武徳会弓術教士。栄先生は養子である。若い頃には姫路の鶴田氏につき堂射も行っていた。

浦上榮範士伸合い 浦上栄(明治15(1882)〜昭和46(1971))
10才の時より父である直置師に日置當流弓術を学び、後に日置當流師家・徳山勝弥太範士に師事し、大正元年に免許皆伝。日置流弓術を以て生計を立てた。採山と号す。
昭和2年(1927)大日本武徳会より範士の称号、昭和32年(1957)全日本弓道連盟より十段。昭和37年紫綬褒章。昭和40年勲四等旭日小綬章。帝國海軍兵学校・大学校、大蔵省、日本銀行、東京工業大学、早稲田大学、法政大学等弓道部師範。
著書に「紅葉重ね(手の内)」、「離れの時機」、「弓具の見方と扱方」、(浦上同門会発行){現在「紅葉重ね・離れの時機・弓具の見方と扱い方」として遊戯社より出版されている。}「弓道及弓道史」(斎藤直芳共著・平凡社武道全集)、「日置流射法詳解」(雄山閣弓道講座第二巻)など。

稲垣源四郎範士弓構え 稲垣源四郎(明治44(1911)〜平成7(1995))
稲垣源四郎義典(よしみち)。昭和5年に第一早稲田高等学院理科入学と同時に、早稲田大学弓術部師範浦上栄範士に師事する。後に日置流印西派(日置當流)免許皆伝、射儀指南百首。昭和11(1936)年早稲田大学理工学部卒業。昭和12年から昭和20年の終戦時まで従軍。

昭和31(1956)年5月、戦後初となった天皇皇后両陛下ご臨席の御前試合にて、決勝戦で中野慶吉・渡辺敏雄両選手を破り優勝を果たす。昭和44(1969)年全日本弓道連盟より範士の称号。早稲田大学講師、東京教育大学(現筑波大学)教授、筑波大学弓道部師範、早稲田大学弓道部師範、ドイツ武道連盟師範、範士九段。
昭和44(1969)年全日本弓道連盟より派遣されてドイツに弓道指導を始めてから、毎年ヨーロッパ各地で弓道を指導。元全日本弓道連盟競技委員、元全日本弓道連盟科学研究委員会委員長。元浦上同門会会長。

著書に「弓道入門」(西東社)、「現代弓道講座・日置流射法」(雄山閣)、「日本の武道---弓道・なぎなた」(講談社)、「日置當流射術教本」、「絵説弓道全」・「新・弓道教本」(東京書店)等々。

村上久範士 村上久(明治35(1902)〜昭和62(1987))
大正15(1926)年早稲田大学政治経済学部卒。大正9年、大学にて浦上栄師について日置流の弓を学ぶ。後に、宇野要三郎師、千葉胤次師につき弓を学ぶ。

昭和31(1956)年全日本弓道連盟より範士の称号、昭和58(1984)年十段。昭和4(1929)年日本学生弓道連盟を結成。戦後、全日本弓道連盟の結成に参画、同連盟常務理事、専務理事、副会長、称号段級審議会委員、顧問。範士十段。元JOC委員、元国際弓道連盟副会長。浦上同門会会長。昭和44(1969)年藍綬褒章を授章。
弓道教本4巻に「心気の働きと技法」を執筆。「弓射における心法の研究」、「弓道修練の要諦」などがある。

伊藤信夫範士伊藤信夫総大将 伊藤信夫(明治23(1890)〜昭和56(1981))
薩摩日置流師家。学校長、県議会議員、教育委員。柔道教士7段、剣道5段、居合、空手にも通じた武道家である。明治44年から溝口武夫範士に薩摩日置流を、昭和6年より小笠原清道師にも弓を学ぶ。昭和41(1966)年全日本弓道連盟より範士の称号。範士九段。
薩摩藩弓術師範初代東郷長左衛門重尚より数えて12代目の東郷長左衛門実敬は、28代藩主島津斉彬公の命により、日置流秘伝「槍脇の射法」を参考にして、腰矢・指矢の射法を完成し、その子である東郷源四郎重特が受け継ぐ。13代東郷重特の門下生として修行した、出水地方出身の溝口武夫範士(嘉永6(1853)〜昭和10(1935)昭和5年範士)が伝承し、さらに伊藤信夫範士が受け継いだ。
昭和39(1964)年10月15日、日本武道館で開かれたオリンピック東京大会デモンストレーション武道(弓道)にて披露された、伊藤信夫師範一門による薩摩日置流腰矢指矢の実演は有名なところである。また、稲垣源四郎先生の敵前射法の師でもある。


参考文献

・現代弓道講座 1 総論編 雄山閣
・現代弓道講座 2 射法編(上) 日置流射法 稲垣源四郎 雄山閣
・備前岡山藩の弓術 吉田家御奉公之品書上より 守田勝彦 編著 吉備人出版
・日本武道全集 第3巻 人物往来社
・弓道人名大辞典 小野崎紀男 編著 日本図書センター